蒲生の現状を視察

連日の酷暑の中、みなさまお元気でお過ごしでしょうか🥵🍉

さて、私たち貞山運河「御舟入堀」プロジェクトはこの堀の最南端の蒲生に行き現在の姿を検証して参りました。
度々訪れてはおりましたが、この度は集団移転もせず地元に生まれ育ち郷土愛溢れる地元在住の方にご案内して頂きました。

当時、運河で栄えた蒲生は、先の東日本大震災で跡形も無い無惨な姿にその度に絶句しております。
買収されたその用地は訪れる度毎にその変貌ぶりに驚きを隠せません‼️
実際、仙台開港に伴い半世紀前に埋められた堀は辛うじてその姿は呈しておりましたが、これから一体、どうなるのか、どうにかする計画があるのか甚だ疑問である。
一行はこれらの重要な課題を看過出来ない事に焦りを感じながら帰途の道を走って来ました🚗🤔

写真は本日、検証した一部、最後の写真は、震災前(2001年)の春夏秋冬の貴重な映像を観せて頂きました。

蒲生の移り変わり」〜近世から近代へ〜

去る2月18日、宮城野区中央市民センターにて仙台市歴史民俗資料館学芸室長 畑井洋樹氏による「蒲生の移り変わり」〜近世から近代へ〜の市史講座を受けました。

先ず七北田水系が幾度の氾濫により江戸時代、七ヶ浜の湊浜から蒲生に流路が変更になり蒲生は港町として栄えたという経緯があった。
近世になり御舟入堀(1658〜1661)が開削され更に鶴巻〜船曳堀が出来、牛車でに荷物を仙台城に運んだ。
御舟入堀の完成で蒲生に船が集り(荷物を保管するお蔵も備えた)それ故、塩釜はどんどん衰退し蒲生との争奪戦があった。
しかし、伊達綱村公により「享保の条例」により救われ、今の塩竈市があります。
更に交通機関の発達で(木道、鉄道)
その役目に終止符を打つ事になった。

しかし、政宗公が舟運の目的で開削されたみやぎ運河群(貞山運河)は北から南まで延長49km、日本一長い運河として世界にも誇れるものです。
残念なことに1971年(昭和46年)仙台開港建設の際切断されてしまいました。
歴史的価値ある土木遺産が失われたことに深い哀しみを覚えてなりません。

私たちプロジェクトは
仙台空港より屋形船で国内外のお客さまを季節ごとの料理を振る舞いながら沿岸沿線の市町を航行し松島までが夢でした。しかし諦めてはいません。

これからも新たな時代へと若い人たちに語り継ぎ活用していくことの模索を続けて参りたいと思います。

☆結びになりますが、当プロジェクトにご賛同頂ける方がおられましたら是非ご連絡をお願い申し上げます。